わびさび茶飯事

COLUMN
2025.03.18

きっと言わずにはいられなくて、春|むき出し

ご無沙汰しておりませふ

なんだか随分と久しぶりだわ、このむき出し。

イベントにかこつけて胡座をかいていたら、季節はすっかり変わった。

東京ではチラホラ桜も咲いているし、

皆様、

薄着の季節はすぐそこよ。

じゃない。の追憶

ちょうどこの頃になると思い出す記憶があるの。

あれは2012年の3月、友人数名と熱海に旅行に行ったときのこと。

東京駅すぐ近くのレンタカーを借りて出発したアタシたち。皇居の外堀には一足早い桃色の河津桜が咲いていた。

春の陽気に浮かれながら

「桜咲いてるね〜」

なんて、普段は下世話な会話しか飛び出さない口からはそんな言葉が溢れでてたわ。

すると一人がこういうの

「うん、あれはソメイヨシノじゃない。」って。

天気予報士を生業にする彼。確認せずにはいられない職業倫理観というものかしら。

アタシ達は桜(ソメイヨシノじゃない)の美しさと始まったばかりの旅路にただ胸を弾ませていた。

道はスムーズに進み、東京よりもグッと春に囲まれた熱海に着いたのはすぐだった。

静かで穏やかな海沿いには、やはり少し強気でちょっぴり生意気そうな色をした河津桜が延々と咲き誇っている。

「やっぱりここも桜咲いてるね!」

はしゃぐアタシ達に、あの男はこういう。

「ソメイヨシノじゃないね。」

海の碧に負けない色彩を放つ桜(ソメイヨシノじゃない)は、アタシたちがたしかに熱海に来たことを象徴してくれるようで可愛かった。

そのまま車を走らせ、後世に受け継いでいきたいことこの上ない秘宝館のある山へ。

潮の香りを感じるところから、少し冷たい風を感じながら市内を一望できるゴールデンルート。

全てを欲してしまう貪欲なアタシたちはやはり熱海という地を愛さずにはいられない。

可憐な白さを見せる山桜だってどこか堂々とし

「ソメイヨシノじゃないね。」

(そうでしょうね)

その一言を、彼を除くアタシ達は飲み込んでいた。

桜(ソメイヨシノじゃない)が相変わらず美しいから?

美味しい海鮮丼にも食らいついたし、温泉にも身を投じたはずなのに、この旅を振り返ると思う浮かぶのはいつだって

「ソメイヨシノじゃなかった桜たち」

彼だけじゃないってのはわかってる

それからというもの早咲きの桜を見るとアタシはいつも

「桜咲いてる!(でもソメイヨシノじゃないんだよね?)」と思うようになったし、

花見の盛期には

「桜綺麗だな〜(これはソメイヨシノだもんね?)」と思うようになった。

自分に、というより、あの時の彼に言い聞かすように。

でも

この発言、何も彼だけじゃないのは重々承知。アタシも記憶の片隅の何処かで誰かに投げかけているだろうし、このむき出しを書いてるほんの2、3日前にも言われたばかり。

「あれはソメイヨシノじゃない。」って。

シュンに。

もしやかの有名な法師の教訓・・・??

興醒めしたとか、批判したいとかっていう気持ちは毛頭なく、

人はどうして桜がソメイヨシノか否かを共通認識として確認せずにはいられないのだろう。

先述した早咲きの桜だってどれも美しく、心を動かすには充分なのに。

ソメイヨシノという桜が王道を歩いてるからかしら。

だからその言葉の裏側にあるのは、一種の抑制?

まだこの桜で浮かれるのは早いよ

本番はこれからよ

みたいな。

こう考察するとなんだか

「仁和寺にある法師」

がアタシの頭の中にひょこっと顔を出す。

中学の古典の教科書で触れたであろう徒然草に登場するあの僧侶。

石清水八幡宮を参拝しに行ったものの、手前の極楽寺を見てこれだけと思って満足して帰ったのよね彼ってば。当時読んだアタシは

「何事も簡単に知ったように満足しちゃいけないわね」

と感じたものだった。

もしや古来より脈々とこの教訓は受け継がれ、来たる本堂への覚悟を促す作用を促してるのかもしれない。

現代語訳すると石清水八幡宮はまさしくソメイヨシノと訳されてもいいのよ、きっと。

「〜じゃない」なんて否定言葉を用いるその言葉の真意は、

「まだこれから先があるね」

そう変換すると、私が繰り返してきた会話の景色も様変わりする。

全てがソメイヨシノである必要も、ソメイヨシノをゴールにする必要もないけど、

「ソメイヨシノじゃない精神」で

少し謙虚に、

もっと身軽に、

この世の春、乱れ咲いてみない?

トトメス

書いた人
トトメスシャカリキ枕(詞)女優

トトメスです。魚の食べ方に定評があります。 頭も食べますし、ヒレも食べます。

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